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2025年6月9日月曜日

わたしの観想生活における現在地





仕事を辞め、いわばプータローとして観想生活に入ってから、この9月で18年が過ぎることになる

この間を振り返ってみれば、これといった専門領域を持つこともなく、この世界に身を晒すという生活をしていたように見える

専門を持つということは、自分の意識が集中するところとそうでないところが分けられることを意味する

専門の中にいる時に感じていた不全感は、まさにそのことに由来していたのである

言葉を換えれば、自分のすべてが使われていないという感覚だろうか

その経験から、意識の三層構造理論を提示した


第一層は、日常生活に使われるほとんど自動的、反射的な思考(思考と言えるかどうかわからないのだが)しか行われない領域

第二層では、それぞれの仕事(専門領域)で使われる意識で、その領域の中で論理的、時に抽象的な思考が行われる

そして第三層が、領域の枠を取り外し、一人の人間としてそこに在るという状態で思考が行われる領域で、科学を超えて形而上学的世界に入ることができる

このようにわれわれの意識の在り様を仮に分け、第三層の重要性を訴えてきた

これまでの観想生活を三層理論に当てはめれば、ほとんどの時期を第三層の中で暮らしていたことが見えてくる



哲学の中には、それぞれの専門領域に対応した哲学がある

例えば、法哲学、科学哲学、芸術哲学、宗教哲学など

これとは別に、形而上学というものもある

マルセル・コンシュによれば、これは「現実」の「全体」についての言説だという

「現実」も「全体」もその意味するところを一言で言うのは難しいが、領域を離れてそこに在ると思われるものの全体を瞑想するということだろう

科学と同じように、専門領域の哲学を始めてしまうと、この全体への視線が衰弱する可能性が高い

もちろん、科学者の中でも全体への視線を失わなかった優れた精神の持ち主は存在したが、それは科学の性質からではなく、その個人の特性によるところが大きい

哲学についてもそれが言えるのではないだろうか

この観点から自らを振り返ってみれば、すでに触れたように、最初から形而上学へつながりやすい意識の第三層と共に在ったように見える

同じくコンシュによれば、形而上学者は、常に自らに帰る時間を持たなければならないという

そのために、パスカルの言う「気晴らし」をできるだけ避けなければならない

パスカルの気晴らしには、この世界におけるほとんどすべての活動が入るだろう

そこには、生活の糧を得るための仕事も入るのである

理想的な形而上学者はプータローでなければならないことになる

コンシュは、シオランのように乞食はできなかったので大学の職で生きてきたと言っている

その意味では、シオランは理想的な形而上学者の条件を具えていたと言えるかもしれない



わたしの場合、人生の前半においては、特に考えることもなく、気晴らしの中にいた

そして、人生後半に入る前、その生活に物足りなさを感じるようになり、現在のような生活に入ることになった

それは、パスカルを読んだからではなく、わたしが気づいていたことをパスカルが「気晴らし」と言っていたということである

観想生活に入ってから、このようなことが頻発している

「わたしが考えるようなことは、すでに考えられている」というフォルミュールに表したことである



さて、2023年に免疫についての科学的分析から哲学的省察に向かう著作をまとめることができた


2年前のことだが、自分の中ではつい最近のことのように感じている

仕事をしている人から見れば、「もう2年前」と言いたくなるほどの時間に感じられるのかもしれない

いずれにせよ、この著作の中で指摘している今後の課題の他にも、さらに省察すべき点がいくつか出てきている

現在進めているコンシュの『形而上学』の翻訳と並行させながら考えていきたいものである

どの程度熟成させることができるのか、あるいはそれまでにどれだけの時間を要するのか、今は全く分からない



マインドファイル再出発後の最初の投稿となった