哲学




















2008.6.25 (me)

これまでのやり方は、目の前の問題に全力で当たるというのではなく、本来の研究、本当の自分の姿は別のところ、この先にあると考えてやっていたようだ。つまり、今やっていることの中に入り、深く考え、さらに新たな道を探るというやり方を採っていなかったようなのだ。このやり方では、永遠に自らに根ざしたものが生まれて来ないことになる。なぜなら、今やっていることは仮のもので、将来自分本来のものが出てくると考えているからだ。取り組み方を改める必要があるのではないか。


――2022.1.14 (ve)―― 



2008.6.21 (sa)

プロセス哲学を唱えたホワイトヘッドによる。

アリストテレスは、真の現実は時を超えていると見ていた。永遠の実体に基づくもので、プロセスは否定。変化は起こるかもしれないが、それは偶然で本質的ではない。

ソクラテスが病気の時、彼は健康の時と何も変わっていない。起こったように見える変化は、元々ある実体の上に滑り込むだけ。

古典的な存在論の立場で、現実の全体を変化を帰することを否定する。

それに対して、プロセス哲学は「成る」存在論である。
変化こそ現実の基礎であるとする。在ることは、成ること。

ヘラクレイトス(550 BC- 480 BC): 生成の基礎として "noûs"、対極にあるものの争いとして  "agôn" を変化によるすべての現実の基礎とした。

均衡と対立が、存在の流れにある変化と安定の基礎である。


――2022.1.11 (ma)―― 



2008.6.18 (me)

Tout le monde est abruti par la télévision.(白痴化)

こちらではテレビを見ていないので、この主張の意味するところがよく理解できるようになっている。


――2022.1.9 (di)――



2008.6.15 (di)

現実の問題を解決するという方向性ではなく、そこから離れて問題の基本、本質に迫るようなアプローチを採りたい。そうすると、問いは非常に単純になる。それ故、回答は難しくなる。そこで初めて、過去人の考えを知りたくなるのだ。

フーコーが自分の著作と道具箱として使ってほしいというようなことを言っていたが、自らの思索の中に過去人の思索の跡を取り込んでいくことが大切になるだろう。それが考えることだろうか。

今フランスにいて、これまでは名前だけだった人が生きて考えた血と汗の結晶を身近に感じるようになっている。第三者的な解説書では味わうことができない生々しさを感じながら生きている。

生きた証として、自らの思索の跡を纏めるという姿勢が重要になるが、哲学するには非常に恵まれた環境にいるように感じている。

日本では内側から、流れの中から考える人が大多数で、そこから離れて外から眺める人が少ないように見える。そのような状況では哲学的思考は育ちにくい。身の回りのものに縛られていて、自由に考えることができなくなっている。それは真理に向かう運動をしないうちに終わりを迎えるという世界ではないだろうか。



2008.6.14 (sa)

哲学とは、世界の見方の変容を迫るもの。これはアドーさんの見方だったか。

自らを変える精神運動を伴っていなければ、真に学んだことにはならない。

あるいは、学ぶためには精神をそのように使わなければならないことになる。

意識的な動きをさせなければならない。

職人が手を動かして何かを作るように、考える人も精神を動かさなければならない。

その意味では、アーティザナルなところがある。

古代ギリシア人がそうしたように、移動し、場所を変え、精神の鮮度を維持する、あるいは活力を高めることだろう。

モンテーニュは、足が頭を引っ張ると言ったようだが、歩くことにより精神の動きを活発にさせることである。


――2022.1.8 (sa)――



2008.6.9 (di)

日曜の散策。
Jardin Samuel-de-Champlainでは芝生に仰向けになり、空を眺める。
それからCimetière du Père-Lachaiseで、2時間ほど彷徨う。
バルザック、ネルヴァル、プルーストなどの墓があった。
木陰に腰を下ろして読書をしているご婦人がいたが、日本では見かけない景色である。
手入れの行き届いたもの、そうでないもの、いろいろな墓があったが、いずれ全ては朽ち果ててゆくのだろう。

我々はほんの一瞬、この世で過ごし、後は再び暗闇の中に消えて行く。生は死 La vie, c'est la mort. 死を意識しない生は意味がないだろう。死を意識することにより生が創造的になる。La mort, c'est la création. この真理を過去人はすでに見抜いていた。 

創造性、独創性はどこにあるのだろうか。殆んどのことは過去人により考えられており、新しいと称する殆どはその中のどれかに当たり、その元を知らないだけではないのか。そして、ほんの一部が過去人の考えを修飾したものになるのではないのか。その意味では謙虚でなければならないだろう。カンギレムクルト・ゴールドシュタインの影響を受け、カンギレムのアイディアのかなりの部分がそこにあるとの指摘も目にしたことがある。ただ、それは何の不思議もないことである。このようなことは例外ではなく、寧ろ規則といってもよいのではないだろうか。


▣ 「死を意識しない生には意味がない」ということについて、あるいは「文系における独創性をどのように考えるのか」についても、後に「医学のあゆみ」のエッセイで取り上げることになった。例えば、
ハイデッガーによる人間存在、あるいは「真の人間に成る」とは.医学のあゆみ(2019.7.13)270 (2): 211-214, 2019

「いずれ全ては朽ち果てる」などという感慨は、マルクス・アウレリウスを想起させる。これもエッセイで取り上げている。

この日、気分が解放的になったのか、より広く考えるモードに入っていたのか、テーズで取り上げるべきテーマについてもメモしている。それを読むと、テーズの段階である程度出来上がったもの、その時には間に合わず、最近それが一応の完成を見たものがある。つまり、2008年のアイディアが14年を経た2022年に纏まりを見せたということになる。このことを確認することは感動的でさえある。


――2022.1.7 (ve)――



2008.6.3 (ma) @IP

日本の医学教育を明治時代から追ってみるのはどうか。

ドイツでの状況:1861年、医学生の試験で哲学が物理学に取って代わられ、還元主義が強くなる。

その結果、道徳、倫理面の開拓が難しくなる。

病理学者フランツ・ビューヒナー(1895–1991)は、90歳の誕生日に「医学の中にもっと哲学を」という方針を勧めるように言ったと伝えられる。ナチの安楽死に批判的であったが、後年中絶に対しても批判的であった。

哲学と医学が同じ土俵に上る?


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フランスで哲学を学ぶという道を選ぶことができた背景には、わたしのある哲学がある。

それは「百歳からものを観る」と名付けているもので、50代に入った頃から生まれたものだ。

それまでは、兎に角、坂を上るが如く、前だけを見て歩んでいた。

しかし50代に入り、徐々に何かが変わり始めた。

その頃から、年齢を重ねているにもかかわらず活力を失わない人に魅力を感じるようになってきた。

人間が持つ "vivacité" を好ましいものとして捉えるようになったとも言える。

その時期に一致して、それまで足元しか見ていなかったものが、一気に百歳まで飛んでしまったのである。

その状態は、わたしが坂を上ってくる姿を百歳のわたしが眺めていると言えるだろう。

わたしが初めて上るはずの坂道は、百歳にいる別のわたしはすでに上ってしまっているのである。 

そのためだと思うが、精神が非常に落ち着いた状態にあることに気付くことになった。

これから先どれだけ生きるのかは分からないが、この視点のお陰でこれから先もどこかに上っていくという感覚ではなく、安定した場所で時間を過ごすという感覚に変わってきたのである。

それを別の自分が見ているので妙な安心感も生まれている。


世間では「生涯現役」が叫ばれている。

しかし多くの場合、それまでやってきた仕事をできるだけ長く続けるという意味で捉えられているように見える。

ここで、現役の意味をもっと広く捉え直してはどうだろうか。

それは、人間としての仕事をするということで、哲学が教えるところでもある。

知を鍛えること、そこに精力を注ぐこと、この先には広大な原野が広がっているように見える。


▣ このアイディアは、2012年の「医学のあゆみ」エッセイとして発表した。


――2022.1.5 (me)――



2008.6.2 (lu)

M1のオーラル・エクザムがあった。
問題をよく理解できていなかったようだ。
ただ、M1から始めたのは苦しいながら正解だったように思う。
僅か数万円程度で素晴らしい教育が受けられること。
これほどの贅沢があるだろうか。

全ての事柄について、過去人は発言しているはずだという感触が強くなる。
そこで自分の独創性をどう出すのか。
それは、どのような事柄を組み合わせて新しい見方、現代にとって意味のあるものを出すことができるのか。
このあたりに掛かってくるのだろうか。

自分の中に出来上がっている知識のヒエラルキーを取り払うこと。
専門から離れて、自分の中に入ってくるものを選別せずに受け入れること。
知の入口を閉ざさないこと。
そこから、少なくとも自分にとって新しいものが見えてくるのではないか。

「学ぶとは、変わること」


▣ このような教育を受けていたことを改めて確認。マスターから教育を受けたことについての感想はその通りで、時間の経過とともに益々強くなっていった。



2008.5.15 (je) @Boulogne

Philosopher concerns not the discovery of laws and facts but the philosophical foundation of science, not the formulation of a metaphysics about the world. Today's philosopher does not believe there is a metaphysivcs in nature. 

previously: philosopher of nature
now: philosopher of science (Il faut connaître les résultats de la science empirique)

▣ 原典が何なのかの記述がないが、現代の哲学者は自然の形而上学を信じていないという。
おそらく、そうなのだろうか。
現在に至るまでの自分の立場は、そこに異議を差し挟みたいということだろう。
自然の哲学者から科学の哲学者に変わったというが、そこで言われている条件(科学の成果を知っていなければならない)に関しては同意する。


――2022.1.5 (me)――



2008.4.26 (sa)

これまで文系でフランスに留学した日本人は、どの程度対応できたのだろうか。すべての人が自分と同じとは言えないが、相当難しかったのではないだろうか。全くの想像でしかないのだが、、



2008.4.24 (je) @IP

人類の将来。遥か彼方の社会はどうなっているのだろうか。すべてが理性で片付く、感情を排したような人間(ロボット)が出来上がっているのだろうか。そのような社会が理想なのだろうか。何の軋轢もなく、悩みもない社会(ユートピア)が理想なのだろうか。

人間の脳が考えることをコントロールできるのだろうか。人間が途方もないスピードで進化しない限り、難しいのではないか。


2008.4.14 (lu)

科学の歴史における3つの対立



3)continuisme vs. discontinuisme


――2021.12.27 (lu)――




2008.4.7 (lu) @IP

哲学研究者はいるが、哲学者は少ないということをよく聞いてきた。それはどういう意味なのか。哲学に関する知識は持っているが、それを生きていないからなのか。哲学は知識の所有ではないと言われる。そもそも所有するとそこで終わるので、哲学は終点ではなく、終点に向かう過程にいようとするものと考えられているのか。どういう生き方をしているのか。哲学がその人をどのように変えたのか。それがよく見えないところで哲学を語ることにどれだけ意味があるのか。

哲学は何の役にも立たないと言われるが、これまでの経験から哲学ほど有用なものはないと感じている。それはその人間の生き方の基本に触れることができるものだからだ。その観点から見ると、本来大学で学問としてやるべきものではなく、各自がそれぞれのやり方でこの問題を考えることが重要で、その過程で過去の哲学者の考えを参考にするというのが自然な流れではないのだろうか。これはこれまで自分がやってきたことにもなるのだが、、

哲学の危機ということが叫ばれている。大学では人文系が縮小されようとしている。そこで哲学はどうあるべきかということが議論されるようになっている。現代の哲学(科)は実際にどうなっているのかは分からない。ただ言えそうなことは、哲学の起源に還り、知の所有を前面に出し、現代社会に役立つようなものにしようとしている限り、復権はないのではないだろうか。なぜなら、それは哲学でなくてもよいからだ。あるいは、そうなると哲学ではなくなり、科学と変わりなくなるから、とも言えるだろう。

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お話(論理の流れ)が滑る人と、ゆっくりしているがしっかり足を踏みしめて確実に前に進む人がいる。日本では圧倒的に前者が多いように感じる。それは、こちらに来て後者の人間がいることに気づいたから見えてきたことである。つまり日本では、「論理の流れ」というようなことに関心が向かっていないということではないか。思考が滑っているのである。これでは現実を明確に促え切れない上、あるいはそれ故に、後に何も残らないのではないか。そう感じ始めている。


――2021.12.16 (je)――



2008.4.5 (sa)

事実を知るため、解釈するためだけに読むのと、自らが促されるところまで行くのとでは大きな違いである。

これはピエール・アドーも指摘している "s'informer"(自らに情報を与える=情報を得る)と "se former"(自らを作り上げる=自己形成する)の違いになるだろう(N'oublie pas de vivre, 2008)。

この本の中には、最初のブログDANS LE HAMAC DE FRANCE)で育まれた思想と重なる考えが随所に見られる。

彼の好みであるゲーテの「魂の鍛錬」が中心に据えられている。

「魂の鍛錬」は古代哲学にインスパイアされているが、西洋哲学の長い歴史の中で発展してきた。

「魂の鍛錬」という言葉は、ルイ・ジェルネ(1882-1962)、ジャン・ピエール・ヴェルナン(1914-2007)、ジョルジュ・フリードマン(1902-1977)らによって使われている。

宗教的含みのない知的活動、想像活動、意志によるものである。
この活動により、自らを変容させ、世界の見方を変えることができるという。

つまり、知識を得る(s'informer)ためではなく、自らを築き上げる(se former)ために。

ゲーテにとって、現在に集中すること、過去の重みや未来の幻影に惑わされることなく、その存在の一瞬一瞬を激しく生きることが重要であった。

『生きることを忘れるな』の第1章のタイトルは、「現在に在ることはわたしの崇拝する唯一の女神である」というゲーテの言葉から取られている。


第2章は「魂の鍛錬」に関連するもう一つのこと、「上から見る視点」(le regard d'en haut)と「宇宙的な旅」(le voyage cosmique)を扱っている。

今在る「もの・こと」から距離を取り、個人的・部分的な視点から離れ、大局的に「もの・こと」を見ようとすること。

――2021.12.9 (je)――


第3章は「希望の翼」。ゲーテの詩から入っている。

人生と存在を目の前にしての目覚め――それが痛みや恐れを伴うとしても――

第4章は「人生と世界にoui」

人生に対するゲーテの深い愛。キリスト教徒やプラトン主義者の "memento mori" ではなく、スピノザにインスパイアされたゲーテは "memento vivere"(生きることを忘れるなかれ)を説いた。

"Gedenke zu leben"(= N'oublie pas de vivre):ウィルヘルム・マイスターの中にある「過去の部屋」でマイスターが見た標語。

実は、2000年にドイツの碩学ハンス・ユルゲン・シングス(1937-)が同名の論文(Gedenke zu leben. Goethes Lebenskunst)を出しているという。

ゲーテの『親和力』(1809)の中に、ゲーテの生き方を拒む者としてファウストとエードゥアルトが登場する。ファウストは現在に集中できないためで、エードゥアルトは自身の気紛れと欺瞞のために。


真の古代人であるヴィンケルマンは生き方の秘訣を知っていた。
古代人は今に生きることを知っていた。
現代人は過去や未来に囚われて、このことを忘れている。

ロマン主義者は現在に生きることは些細なこととして退ける。
むしろ、不在、遠くにあるもの、手に入らないもの、過去、未来、他の世界、他の人生に対するノスタルジアを持っている。

ゲーテは現実、日常、現在を受け入れ、ロマン主義者のノスタルジアを拒否する。

⇒ この対比から自分自身を見れば、これまではロマン主義者のようであり、フランスに来てからは現実を味わおうとしているようにも感じる。ロマン主義者のノスタルジアを維持しながらも、ゲーテ的な「いま・ここ」への集中を覚えてきているということだろうか。つまり、現在への集中の中で、過去や今は手に入らない世界について考えるということをやっているのではないか。 

▣ アドーの本をしっかり読み返したい気持ちになってきた。


――2021.12.13 (lu)――



2008.3.19 (me) @Institut Pasteur (IP)


科学は西洋の産物で、他の世界はそれを取り入れたので、科学を見ることは西洋の他の世界への影響を見ることになる。

哲学は科学が答えられない問題を考える。さらに、なぜ科学がその問題に答えられないのかを考える。哲学は科学が何なのかを答えられる第1の学問。


2008.3.29 (ve) @IP

● explication

      explanandum = the fact that is to be explained (ce qu'il s'agit d'expliquer)

      explanant = that which does the explaining (ce qui explique) 


――2021.12.4 (sa)――



2008.3.16 (di)

この日は、還元主義とそれに対抗する考えについてメモしている

概念的なものを理解しようとし始めた時期になるのだろうか

そのまま以下に書き写したい


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1) Holisme vs. Réductionnisme

● Holisme :  Gr. holos = all, entire, total

 Aristote, Métaphysique  "The whole is more than the sum of its parts."

この言葉は南アフリカの政治家ヤン・スマッツ(Jan Smuts)が1926年の著作 Holism & Evolution で最初に使われたとされる

"The tendency in nature to form wholes that are greater than the sum of the parts through creative evolution."

● Réductionnisme : A complex system can be explained by reduction to its fundamental parts.

 e.g., Biology is reducible to chemistry & physics; psychology & sociology are reducible to biology; chemistry is reducible to physics;;;

 この考えなどは、オーギュスト・コントの科学理論にも見られる。

H & R may be complementary.


erroneous (vs. acceptable) reductionism = attempts to explain away without solving the problem
問題を逸らして言い抜ける

"nothing-butterly"  = 「XはYに過ぎない」とする

例えば、「モナ・リザとは絵の具をキャンバスに塗ったものに過ぎない」といった言説
モナ・リザの絵が表現しているものについては何も語っていない

2) Gestalt psychology(ゲシュタルト心理学) A theory of mind & brain

The operational principle of the brain is holistic, parallel and analog, with self-organizing tendencies.
The whole is different from the sum of its parts.

The origin of Gestalt:

ルーツにはゲーテカントがおり、エルンスト・マッハ、その影響を受けたフッサールもその流れにいる


――2021.11.27 (sa)――

 





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