文化





















2008.7.26 (sa)

CP Snow の2つの文化を読む


2008.6.29 (di)

ポンピドゥーセンターで、チェコの写真家ミロスラフ・ティッシー(Miroslav Tichý, 1926-2011)の展覧会を観る。

彼の言葉から
● 一番小さな数字、一番大きな数字?そんなものはない。あるのは無限だけだ。

● 歩けるところはすべてカメラに収めた。全体を手のうちに収めた時、初めてその配色や形を鑑賞できる。すべて美しく見えるのだ。

● わたしは存在しない。わたしは道具である。おそらく、知覚するための道具。わたしは何も信じない。どんな人も、わたし自身さえ。 


 最近よく本を買っているが、すべて自分の関心を中心にしたもので一つの繋がりを持っている。科学者時代は読書量も減っていたし、あったとしても時間潰しの読書で、焦点が定まっていなかった。それが大きく変わってきている。


――2022.1.16 (di)――  




2008.6.27 (ve)

日本人は大きな出来事(例えば、太平洋戦争)などの後、あっさりと過去を忘れ、新しい価値観に追従するところがある。つまり、それまで自分の頭で考え、それが身に沁みているということがなかったのではないか。誰かが言うことに従っているだけで。歴史、過去をあまり重視することなく、今に遊んでいるだけなのではないか、という疑念が浮かんでくる。

建物を見ても、こちらは気分が塞ぐような古いものも残っている。ただ、中はリノベーションをしているものも少なくないので、中に入ると印象が変わることもある。これは日本のような地震がなく、石造りということも関係しているのかもしれない。日本は何かがあった後は立て替え、古いものが残らないようになっている。過去が消えていくのである。

総じて思考の結果である思想を大切にしないところがある。周りやお上に合わせてうまく付き合いながら生きていくことに重きが置かれているように見える。それでは見ている世界が狭い上、上述のようにふわふわと生きていくことになるのではないだろうか。


――2022.1.15 (sa)―― 



2008.6.19 (je) au Musée Albert Kahn

インド展をやっていて、次の言葉に出会った。

● E・M・フォースター(1879-1970)イギリスの作家

インド――百ほどのインド――が外でつぶやいた。インドでは何も認識することができない。質問するというそれだけの事実が「もの・こと」を消失させたり変容させるのだ。

インドへの道』(A Passage to India, 1924)


● フィア・オーマン(Fia Öhman, 1864-1954)スウェーデンの探検家

如何なるヨーロッパの想像力をもってしてもインドを思い描くことはできない。ましてや、十分に理解することなど猶更である。

『インドの空の下.ラビンドラナート・タゴールの国への旅』(Sous le ciel des Indes : Voyage au pays de Rabindranath Tagore, 1927)


● ジャン・クロード・カリエール(1931-2021)フランスの俳優、脚本家

インドには時間がない。何世紀もの時間が相互に排除することなく、塊を作っている。

Dictionnaire amoureux de l'Inde, Plon, 2001)


ジャン・ビエスJean Biès, 1933–2014)フランスのエッセイスト

パラドックスの力によって、インドはあなたが想像していたすべてのことをあなたの中で破壊する。 あなたは、あなたの参照システムが機能しない世界の光景を目撃するのである。 

(1995)

● ラビンドラナート・タゴール1861-1941)インドの詩人

「読者のあなた、100年後にわたしの詩を読んでいるあなたは誰ですか? 咲き誇る庭で、百年前の枯れた花の香りのする思い出を摘み取りましょう。」

(Le Jardinier d’amour, 1913)


イギリスのバラ園を歩く小柄なベルクソンの姿がビデオで流れていた。
日本庭園創設時に撮られた大隈重信の姿が残っていた。


――2022.1.10 (lu)――








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